カラたま日和

カラーアナリストのたまごです。韓国ドラマとスィーツが大好き💕ゆる〜くブログ始めます。

振り返ってみれば、人生は迷いと決断の上に積み重ねられてきた

61年間も生きてきたので、これまでの決断をもし数えてみたらとんでもない数字が弾きだされるんだろうな、と思う。

次の女子会は、中華にすべきかイタリアンにすべきか、とか、今日買った入浴剤、初日はラベンダー使う?それともローズ?なんてことから、長年付き合ってきた彼についにプロポーズされたけど、この人でほんとにいいのか?とか、住宅ローン組むのに、固定金利、変動金利どっちが得?みたいな今後の生活やお金に関わるようなものまで、誰しも大なり小なりの迷いと決断を経て、現在に至っているのだ。

それぞれの決断には、決断=迷い、もしくは決断≧迷いもあるだろうから、人は365日何らかの迷い&決断をしてるはずで、そりゃあ、脳も日々、さぞかしお疲れのことでしょう。

そんな風に脳みそを疲れさせながら、私も61年間を生きてきたわけなんだが。

そんなこんなの過去の決断&迷いをこの機会に思い起こしてみた。

さて、私にとって、物心ついてからの最初の大きな決断は?というと

何と!

父の彼女に会い、母と彼女のどちらが良いかを選択させられたこと

だった。

書きながら”作り話みたいだなぁ”と、なんか笑っちゃうんだけど、実家のアルバムには確かに父の彼女の写真があって、後年、” この人は確かあの時のあの人じゃないですか!?”と、どんびいた。(お母さん、何故破り捨てなかったんですか??)

それは、私が幼稚園に通う以前の話だったと思う。ある日、父に料亭らしきところに連れていかれた。

なんせ幼少のみぎりの頃のことだから、詳細はわかるはずもなく、妙に緊張感のある空気が漂ってたことだけはうっすら覚えている。

うちの父は、昔からなぜかモテ男だったのですよ。

“自分から女性に迫ったことがない”ということが自慢で、女の人からしょっ中、言い寄られてたらしい。

確かに若い頃は男前だったし、品のある雰囲気も漂わせてたから、父のことをよく知らない女性なら好きになるのも分からなくもない。(良く知ってる私からするとあり得ないタイプだけどね)

その場には多分、母もいたように思う。が、いつもながら母の存在感は薄かった。

そこに現れたのは和服姿の、美人というわけではないが、色っぽいお姉さんだった。

そのお姉さんが座ると、唐突に父が私に尋ねた。”お母さんとこの人のどっちがいい?”

なんという質問なんですかね。そりゃ”お母さん"と答えますわね。

面談はあえなく終了し、翌日から何ごともなかったかのように日常が再開しましたが。

長年、ひどい話だと思ってきたけど、今にして、あれは”母と愛人の対決”というよりは、多分愛人に決断を迫られた父が、私を使って諦めさせようとしたのでは?と、思う。

しかし、あのとき私がもし、”お姉さんがいい”とか口走ってたら事態はどうなってたんでしょうね。

この話については、大人になってからも一切親に聞いてないので、未だ詳細は不明なんだけど、この決断に関しては迷いの要素ゼロだったわけです。

しかし、子どもを使って、ホントとんでもないオヤジだね。このオヤジにはその後も何年にも渡って振り回されたわけなんだけど。

 

さて、その次の決断はというと、一気に年月が飛んでしまうんだけどやはりこれかな。

体調がボロボロで仕事を辞めようか散々悩んだが、結局辞めなかったこと

2人目の子どもが出来てから、仕事と家事、育児の両立に体力がもたず、毎日ヨロヨロ、ヘロヘロしながら会社に通っていた。体重も45キロから39キロまで落ち、歩道橋の上では、まじで風に吹かれると倒れそうに。追い討ちをかけるように下の子が肺炎で入院し、付き添い中に自分も突発性難聴を発症。そのままメニエル氏病にまでなってしまったのだ。

あの頃は、「このままこのしんどさが永遠に続くのか?」と、絶望的な気持ちで過ごしていた。

おまけにその時、私が働いていた部署には、パワハラの極みのようなおっさんがいて、みんながそのおっさんの顔色を見ながら仕事してるという最悪の職場環境だった。

そんな八方塞がりの状況の中、それまでは、考えたこともなかったのに「仕事辞めたい」のフレーズが脳裏に。

そのフレーズは、ドンドン大きくなっていった。でも辞める決心もつかず、毎日「辞めたい」「辞めてやる」「辞めれない」「でも辞めたい」が、頭の中の同じ場所をぐるぐる行進していた。

情けなくも決められなくて、占いに行ったりもした。脳も体もしんどさが極まり、ついには病欠を取るはめになった。でも休んでても仕事が気になり気持ちが安らがなくて、”しんどいのは仕事のせい、仕事やめたら楽になるに違いない。”と、完全に現実逃避モードにスイッチが入ってしまった。

毎日、悶々と悩み続けているうちに、病気欠勤の期間も残りわずかとなり、このままでいくと病気休暇になる、というギリギリのところでやっと出した決断は、“仕事辞めない。職場復帰する”だった。

辞めない決断をしたのには、やはり、夫に辞めて欲しくないと言われたことが大きかった。

夫に相談し「 しんどいなら辞めていいよ 」と言う言葉を甘くも期待してた私は、正直腹が立ったのだが、不安定な仕事をしている夫からすれば、万が一を考えた現実的な答えだったわけだ。

夫の「仕事辞めるの反対」表明に加えて、病んでいた私の中にも意外にも冷静な自分がいて、”最悪な状況で重大な決断するのはやめたほうがいいよ “と囁いていた。ギリギリになって決断できたのは、自分の中で、どん底まで落ちてトコトン悩んだからかもしれない。

なんというか、吹っ切れたのか、”あとは上がるしかない”みたいな感じ?

辞めないと決めてからは、薬だけでなく、様々な健康法を試し、あんなにフラフラしてたのが、今では耳鳴りはあるものの、趣味のジャスダンスで首も頭もブンブン振り回してるわけだけど。

あの時、仕事辞めなくて本当に良かった。そしてそれが次の決断にも繋がるわけなんだけど。

 

それは

リーマンショックの煽りを受け、とんでもないことになっていた夫の会社を畳むことを決めたこと

だった。

ほんと、山あり、谷ありだなあ。

考えてみると、夫の様子は数ヶ月くらいおかしかった。お酒の量が増えたような気もしたし、イライラしてるようだったし、睡眠も浅いみたいだった。

私達は全く違う方面の仕事をしてたから、お互い家で仕事の話はほぼしなかった。それに夫は私に色々仕事のことを聞かれるのを嫌がっていた。

まあ、元々お酒大好きだし、イライラは男性にもある更年期障害かと思ってたんだけど。

何となく、気にはなったまま、数ヶ月が過ぎたある日、夫の友人から突然、夫の会社が大変な状況で夫の様子がおかしいと電話があった。

今から夫と会うから来て欲しいと言われ、仕事を早引けしてその場に駆けつけたわけだ。夫&友人の話をかいつまむと、夫の会社は負債を抱え、一刻も早く畳んだほうが良いのだが、なぜか夫はそれを決断できず、ここまで来てしまった、ということらしい。

と、いうことで私が変わりに決断したわけだ。”会社辞めたらいいやん、私が働いてるし”と。この場合も悩む余地なしだったけど。夫はホッとしたように見えた。

そのあとお金の事とか、弁護士に会ったりとか、色々あったんだけど。その頃長男は就職したばかりだが娘は大学生で、まだ学費もかかる時期だった。娘はテレビで見るみたいに家の中に赤札が貼られていくのかとか、大学もやめることになるのかとか、心配していた。

その時、私はつくづくと”仕事続けてて本当に良かった"と思ったわけです。あの時、いやあの後も何回も”もう会社行きたくないよ~”と思ったけど、辞めてたら一家路頭に迷うとこだった。

ほんと、何があるかわからないのが人生だね。

 

この三つの決断は、結果的に良かったものだけど、これまでイマイチだったのも多分あるはず。

訓練の賜物か、決断する時間は若い頃に比べると数段早くなってはいるが、今後最良の決断ができるか自信は全くない。

でもどんな決断だろうと自分で決めたものなら納得せざるを得ないし、もっとおばあちゃんになっても、決断できる自分でありたいな、と思う。